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夢の中の核爆弾のスイッチ

 夢を見た。大きな公会堂のようなところで大勢が集まっている。その会場の上段、人気の少ないところになぜか核爆弾のスイッチがある。核爆弾と言っても、その会場内だけが被害を受ける規模のもの。誰かがそのスイッチを押さねばならない状況だった。最初の2回は大統領のような立場の人が、そして3回目には私がそのスイッチを押した。私がそのスイッチを押した後、中年女性が近づいてきて、私に非難・中傷の声を浴びせかけた。私は一瞥して無言でその場を離れようとしたところで目が覚めた。

 とても象徴的な夢だと思った。私は小学生の頃、先生や他の大人たちが言っていたあることを忠実に守っていた。それが道徳上の美徳だとして。
「他人が嫌がることをしなさい。」
トイレの掃除など人が嫌がる仕事を率先してやりなさいという意味の、当時の格言みたいな言葉であった。私は素直にその言葉に従っていた。どんな仕事でも役目でも誰かがやらなくてはいけないのだからと、課せられれば文句一つ言わずやった。
 獣医学生として最初の生体を用いた実習は解剖学実習だった。犠牲にしたのは、それまで飼育実習で世話をしてきたホルスタイン牛であった。大人しく、賢そうなお気に入りの牛も含まれていた。私は実習室の片隅で溢れる涙を抑えられなかった。クラスメートの男子が気付いて近付いてきて優しく言った。
「泣くな。」
私は泣いているところを見られた恥ずかしさと、その子の優しさで余計に涙が出てきた。その彼は母校で今教授になっている。以降の実習では私は涙が出そうになることはあっても泣かずに、寧ろ率先して参加した。小さい頃からすり込まれた美徳が心の底で大きく作用していたように思う。
 と畜場で食肉衛生検査員をしていた頃は、寒い冬でも率先して追い込み作業を手伝った。と殺風景からは目をそむけず、直視した。

 保健所で不用イヌ・ネコの引き取りをしていた。悪びれもせず持ち込む人、常習者、「よろしくお願いします。」とすまなさそうに動物を置いていく人などいろいろな人がいた。私は心の奥で思った。
「自分の手で始末したら?」
もちろん、そんなことは言えない。それが「狂犬病予防員」としての私たちの仕事であったのだ。子供の頃と違い、私は「何かがおかしい」と思い始めていた。

 死刑廃止論がある。私はどちらかと言えば、恩赦のない完全な終身刑の導入下での死刑廃止なら賛成だが、果たしてそれが本当にいいのかどうかは分からない。その話はさておいて、現状ではこの国は死刑制度を有している。それが法律で定められ、法務大臣が印を押し、誰かが執行するのである。それを仕事としている人たちがいる。以前、今は亡き後藤田さんが法務大臣であった頃、何年かぶりの死刑が執行されたということでニュースになった。死刑反対派は印を押した同氏を非難したが、彼はこう言った。
「少なくともいま死刑制度がある以上、裁判官だって現行制度をきちんと守って判決をしなければならないと思って、敢えて判決をしているわけですね。それを行政の長官である法務大臣が、執行命令に判を捺さないということがあり得るのか。」(「情と理」より)

 核爆弾はおろか戦争などなければいいと思うし、起こらないように最大の努力をすべきだと思う。と殺も保健所の殺処分も動物実験も誰もしないで済む社会なら言うことない。その職に就かず、生きていけたならよかっただろう。しかし、その職に就いたのなら、私は法律が定めている限りにおいて、その仕事を行うだろう。多くの異なる感情や価値観がある社会の中で、法が定められている。法が許し、あるいは規定している限り、誰かがやらねばならない”人が嫌がること”は多くある。それを行わず、感情だけで生きていけたのなら、こんなに楽なことはない。先日、動物の権利に基づいて活動している人が運営するブログに、「動物実験をしている人には、『自分も実験されてみたら?』と言いたい。」という旨のコメントを寄せている人がいたが、あいも変わらず愚かなことを言う人はいるものだと唖然とした。その人はと殺の仕事、保健所での殺処分、そして死刑執行の仕事をしている人にも「自分もと殺・殺処分・死刑執行されてみたら?」という言葉を投げかけるのだろうか?

 本日で実験は終了である。学生に産休制度などないが、”現場”を離れさせてもらう。これでしばらく私も自分の感情を優先できる生活を送ることができる。だからと言って、感情的にわがままに振舞うという意味ではない。しかし、少なくとも夢の中の核爆弾のスイッチを押す必要などもちろんない生活である。そして、夢の中に”核爆弾のスイッチ”として象徴的に現れた、その他一切の仕事もである。データ整理をしながら、心を休め、頭を整理したい。子育てに追われてそんな余裕などないかも知れぬが・・・。
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by fussyvet | 2005-12-30 06:55 | こうして社会は回ってる

挫折

 私は以前、ある動物愛護活動家が個人で主催するメーリングリストに入っていた。その活動家は個人で動物愛護のホームページを有し、その情報量たるや本当に素晴らしく多く、載っていない情報はないのではないかと思われるほどに豊富なものであった。私は個人でそこまで情報を集め、自分の信念に基づいて行動しているその人を個人としてすごいと思っていた。その人が運営するメーリングリストもさまざまな動物愛護活動家が集うもので、当時地方公務員の獣医職であった私にとっては貴重な情報源であり、また良き議論の場であった。私は学生時代に動物実験を行ってきた者として、また保健所の犬猫の殺処分、家畜保健所の畜産行政、屠畜場の食肉衛生検査業務に関わった者として自分の立場から意見を言い、動物愛護活動が”過激”などと揶揄されぬよういろいろな面で橋渡しができたらと思ってそこに参加していた。時には大議論を交わしながら、しかし助けられることもあり、情報のgive and takeの場として大切なところであった。
 しかし、ある日突然、衝撃的な投稿が流れた。国内のある大学からイギリス人の動物愛護活動家により実験犬が盗まれたが、日本人も二人共犯者として動物愛護のあるNGO法人の理事が逮捕されたといい、そのうちの一人がそのメーリングリストの主催者であった。私は耳を疑った。ショックで言葉が出てこなかった。逮捕というものについて、どういう時に逮捕されるのか刑法を調べもした。何だ、何が起こったんだ。ニュースは本当なのか?何よりもそのメーリングリストの主催者は個人でこつこつと活動している者ではなかったのか?なぜ、そんなことをしでかしたのか?
 私が呆然と数日間を過ごすうちに、当該NGO法人のメンバーが逮捕者の援助のためにカンパを募る投稿をそのメーリングリストに再三流した。私は半ば憤って言った。
「仮にも国の税金で援助を受けているNGO法人である。カンパを募る前に、事実関係についてきちんと説明する義務があるのではないか?」
するとその言葉に反論する第三者があった。
「説明とはどのようなことですか?カンパはしたい人はすればいいし、したくない人はしなければいい。」
私は愕然とした。
 この人達は自分たちが関与する世界で犯罪が起きたにも拘わらず、”仲間だから”と言ってその法を犯した者を庇っている。研究者には動物実験に関して閉鎖的だと非難し、行政には殺処分数を減らす努力が足りないと非難しておきながら、身内には甘いのか。それであれば、閉鎖的な研究者達、行政と何ら変わらないではないか。しかも今回は刑法に触れる犯罪である。有罪が確定するまでは何とも言えないとは言え、所詮やっていること、そしてその体質たるや、自分たちが非難する研究者や行政と何ら変わりはしないではないか!
 私は怒りと悔しさと失意の中でそのメーリングリストを無言で去った。後から、私が言ったことに賛成である、あの人達はおかしいという旨のメールを直にくれた人があったが、私は挫折感でいっぱいで戻ることはなかった。何の挫折感か?私は何とか”過激”という修飾語が付いてしまっている動物愛護運動の方法を無邪気に続けている人たちと行政や研究者達との架け橋になりたかったのだ。しかし、そんなことは所詮無理だったのだと敗北感にまみれた。

 今でも対話ができる活動家とは何とか話をしようと努めている。諦めた方がいいのだろうと思うが、対話できる人がいるうちは希望がある。それでも相も変わらず独善的な活動家は多く、そんな人たちの単純な正義感の刃を見ると、あの事件が起こった2003年初夏以来何も変わってはいないと思う。いつまでそんな状態が続くのか。私はホームページを作ってこんなことをしているからと言って、当初指導教官からは正真正銘、最も危険な活動家が仲間のような顔をして潜入し、”スパイ活動”をしていると疑われた。一部の動物愛護活動家もまた、私のことを自分たちの仲間側の”スパイ”だと思ったのか、「情報ありがとうございます。」とお礼を言ってきた。どちらも同じように閉鎖的、敵味方に分かれているうちは動物たちに夜明けは来ない。私はスパイなどではない。架け橋になりたいと思いながら、どちらにも怪訝な顔をされ、ただひたすら絶望感に苛まれる一介の獣医師、人間である。早く動物愛護運動が社会的に容認される方向へ向かうよう、ひたすら神に祈るだけである。
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by fussyvet | 2005-12-27 20:29 | 動物

鶏の殺処分風景より(2)

「動物愛護運動家は何にも分かっちゃいない。」
 学生時代は大学の先輩から、行政にいた時は同僚からしばしば聞かれた言葉である。

 鳥インフルエンザが日本で発生し、当該動物の殺処分風景を見て、心を痛めた人は大勢居るだろうと思う。一部の動物権利論者である国内の活動家は、鳥インフルエンザが発生した農家の管轄行政機関の連絡先をリンクして、「処分方法を考えて欲しい。」という旨の意見を自ら届けるばかりでなく、その文章を掲載して、コピー・ペーストにより多くの賛同者にもWebを通して行動するように求めていた。その賛同者の中には、
「私は鶏肉を食べますが、意見を送っていいでしょうか?」
と躊躇するようにその活動家に尋ねたのだが、
「もちろん、いいです。」
と言ってはばからなかったのには?マークが10個くらい連なった。
 意見を届けるだけではなく、その活動家は行政からの回答も求めていた。一個人の活動家である。コピー・ペーストされた同じ内容の文章が五万と届く中、一人一人に丁寧に回答している暇は行政の担当者にはない。こんなこと言うと、
「どうして市民の声に答えないのか?不誠実だ!」
と怒る人もいるだろう。しかし、多くの地方自治体の県庁などの担当者は一人だけである。しかも、その担当者は鳥インフルエンザの発生により、もっと優先すべき職務がある。彼らの職務は畜産の育成と保護、家畜伝染病の蔓延予防である。鳥インフルエンザなど人にも感染すると言われている疾病である。そちらの方が大切なのである。
 現場での殺処分風景が残酷だとして、
「もっと丁寧に鶏を扱って。」
という声が届けられたようだが、どの程度にすれば「丁寧」の範疇に入るのだろうか?少なくとも、作業する人間も感染の危険に曝されている。そして、近隣住民・養鶏もだ。迅速さが第一である。そして、作業する労働力は限られている。そんな現場の人間からすれば、「やっていられない。」であろう。
 一個人の活動家として、そんな多忙な人間達に声を届けて回答を要望するだけでは、ただ単に公務執行妨害以外の何物でもない。かわいい鶏のために一番良いのは、鶏肉の消費を止めること、鶏を餌としているイヌ・ネコも飼わぬこと、そして現場での殺処分風景を”丁寧な”ものに変えたいのであれば、自らボランティアを募って、殺処分に参加することを志願することである。
「鳥インフルエンザで鶏が殺処分される前に予防のため鶏用のワクチンを…。」
とも綴ってあったが、参考までにそのワクチンを開発し、製造するには他の多くの動物が犠牲になることになる。矛盾を指摘してあげたいが、相手が敵対視しているようなので何とも打つ手はない。

 先日、エスキモーのドキュメンタリー番組を見た。エスキモーの父親に倣って10代前半の息子は小さい頃から狩りをしてきた。獲物はシロオオカミに草食動物、そして一角クジラ。彼らはそれでしか生活する糧がないのだろう。ベジタリアンという生き方が選択できる環境にある者はとても恵まれていると思った。私はテレビ画面から目をそらすことはできても、エスキモーの彼らに、
「かわいそうだから、殺さないで。」
と言うことはできない。
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by fussyvet | 2005-12-24 16:15 | 動物

切迫早産でどうせなら…

 先週、転院先で受けた検診により切迫早産の警告を受けた。切迫早産と聞いて、焦ったが、それと同時に「ああ、これで誰にも文句言われず休める。」とものすごくホッとした気持ちが強かった。切迫早産と言われてホッとするなんて、そんな異常な…。が、ずっとここ1年間いろいろなものに追い込まれてきた。自分自身からも他人からも、一部の家族からさえも…。理由がなければ、休むことを許されなかった。

 もし、本当に早産になってしまうなら、12月25日にならないかな。イエス様と一緒の誕生日の男の子。すごいじゃん…、なんてね。

 うそうそ。とにかく、ゆっくり無事に生まれてきてくれればいいからね。世知辛い世の中だから、ゆっくりしておいで。
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by fussyvet | 2005-12-24 07:56 | 神様を愛してる

宗教と政治、権威主義など

公立校で進化論否定は違憲 米、宗教保守派反発か [ 12月21日 10時12分 ] 共同通信

 【ニューヨーク20日共同】米ペンシルベニア州の連邦地裁は20日、人間は人知を超えた力によりつくられたなどとする「インテリジェント・デザイン(ID)」の考えを公立校で教えるのは、政教分離の原則を定めた憲法に違反するとして、授業での採用を禁じることを決定した。
 進化論を否定したIDの授業への取り入れは、ブッシュ米大統領再選の原動力となったキリスト教保守派が推進。ジョージア州やカンザス州でも、その是非をめぐり論議となっていただけに同保守派はこの日の決定に反発を強めそうだ。
 マクレラン大統領報道官によると、ブッシュ大統領は決定について「論議の内容について十分理解するためにも、生徒らは異なった理論に触れるべきだ」と批判的な考えを示した。


 アメリカでは保守的なキリスト教福音派が強く、政治にまで大きな影響力を及ぼしている。宗教は政治とつながるべきではない。中世でカトリック教会が犯した権威主義という過ちにつながるものを感じる。
 私は進化論を否定するクリスチャンには懐疑的である。科学者の中には科学と信仰をきちんと両立させている者がいる。彼らは進化論を否定しない。そして、私も創造論ではなく進化論者である。進化の過程で神の力が働いてきたと思っている。

 昨日、偶然「マグダレンの祈り」を途中から見た。この映画を知らなかったし、ましてや途中からであったので訳が分からなかった。途中から見たシーンでは、修道院にいる女性が寝たきりになったお婆さんにひどい仕打ちをしているものもあった。そのシーンを見ただけでは、「なんてひどい女!」という印象だけだった。そして、全体的にひどく暗い映画だった。
 後で調べてみたら、それがアイルランドで1996年まで実際にあった修道院でのノンフィクションを元にしていることが分かった。厳粛なカトリックの戒律を大義名分にして、アイルランドでは”性的な罪”を犯した女性を修道院に監禁し、”更生”として重労働、体罰、性的虐待下に閉じ込めたのである。上記の映画は未婚の母になった女、従兄弟からレイプされた女、そして見た目が美しく男性を惹きつけるがために”罪”とされた女がその修道院に入れられる所から始まったらしい。途中から私が見た場面は、そんな虐待を受けた女が、倒れて動けなくなったシスターの世話をしている場面であったらしい。
 人間は悲しいかな、罪を犯す。そしてその罪は同じ人間が裁けるものではない。喜怒哀楽の感情は感じることまで否定するわけではない。が、裁くのは神である。体罰や虐待で以て裁くのは違う。罪を犯し、苦しんでいる人間こそ、イエスが救いたかった人であるはずであるのに…。
 私など映画の舞台に存在したとしたら、真っ先にこの修道院に監禁される部類だっただろう。想像するとゾッとする。絶対に宗教を政治、他の権力と結びつけてはいけないのだ。
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by fussyvet | 2005-12-22 15:01 | こうして社会は回ってる

鳥獣保護法改正に関わるパブリックコメント

 来年2006年の春の国会にかかる鳥獣保護法の改正について、現在、パブリック・コメント(意見募集)が行われています。(1月13日締切り)

 この案では、トラバサミは、狩猟では禁止を検討するが有害駆除では標識を付けることを条件に許可する方向になっています。現在でも標識を付けることは義務づけられていますが、付いていたためしはないようです。全面禁止にしない限り、違法なワナを根絶することはできません。個人的に猟をする人についてモラルを持っている人を見たことがありません。ホームページにも書きましたが、狩猟犬をさんざん使った後、当然のように使い捨てにするハンター、カラスをおもしろ半分に撃っているハンターなど見ていると、”努力規定”など全く無効でしょう。
 トラバサミがどうしていけないのかって?苦痛が長時間にわたり、大きいからです。

 パブリックコメントは国民の意見を直に届ける機会です。臆することなく声を届けてあげて下さい。エリートは忙しすぎて世間知らず。庶民の声を聞きたがっているはずです。
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by fussyvet | 2005-12-22 14:16 | 動物

「分かる、分かる。」

 以前、友達も同じことを言っていたので、こう思う人は少なからずいるのだろうと思う。
 話をしている中で、しばしば「分かる、分かる。」と相槌を打つ人がいる。言葉の言い回しは、親しさによって、「分かります。」「分かるわぁ。」に変化するが、とにかく「あなたの言っていること、気持ちが分かる。」という意味である。以前同じことを言っていた友達と言ったが、彼の言葉を借りれば、「何が分かるっちゅうの?」と私は思ってしまう。人によって、経験も違えば、感じ方も違う。似ているかも知れないが、似て非なるものである。それなのに、「分かる。」という相槌は正しくない。この相槌を打つ人には、私は二度と心の内を話さないか、近付かないようにする。他人の苦労や身の上話、簡単に「分かる。」ものではない。「分かる。」という言葉がとても軽い。その軽さに喉に何か詰まったような吐き気を感じる。こういう人に限って、その後に「でもね、私もこうしたんだから…。」とその出来事を克服した勝利者であるかのように”諭し”を続け、話した者を興ざめ、あるいは更に傷付けて追い詰めたりする。あるいは、何か違ったところが出てくると、”分からなく”なり、相手の話を聞かなくなるのだ。薄っぺらさに白けてしまう。
 「分かる、分かる。」という相槌は日常のたわいもない会話の中にちょくちょく出てくる。軽い冗談の中で使われる分には何とも思わない。しかし、もしも相手が何か胸につかえているものを吐き出したくて、ただ単に聞いて欲しくて話しているのならば、簡単に「分かる、分かる。」などと相槌を打つものではないと思う。「お察し」したり、「分かるような気がする」ことはできても、人の人生の一部を簡単に「分かる」ことはできない。もしできるという人がいたとしたら、それはとてもおこがましいことである。
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by fussyvet | 2005-12-21 11:53 | 徒然

医者の裏側、獣医の裏側

東京女子医大心臓手術ミス訴訟で当該医師が無罪になったことについてのブログ記事です。

 とても興味深く拝読した。傲慢医師は確かにいる。私も自分が出産するにあたり、転院して正解だったと思う。人間性に問題がある医師は、周囲ともうまくやれない。その結果、医療ミスが発生することだってあるのだ。
 同じことは獣医にも言える。傲慢獣医にはかからぬこと。
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by fussyvet | 2005-12-19 20:18 | こうして社会は回ってる

人間が動物を管理下においている限り

人間が動物を管理下においている限り、
獣医師である限り、
安らかに永遠の眠りにつかせてやらなければいけない時もある。

今夜はゆっくり眠りたい。
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by fussyvet | 2005-12-17 20:03 | 動物

転院しました

 お陰様で無事転院しました。
 思えば、これまでの個人経営の産婦人科では「良い患者」に終始していたように思うので、新しいところでは「わたしゃあ、一筋縄ではいかないのよ。」的オーラを出しまくり、獣医師であること医学部の大学院に通っていることも伝え、きちんと対等に話をできるようにしました。これまでの産婦人科では、獣医であることも医学部の研究室に通っていることも伝えていなかったので、医学的知識がない妊婦として、小学生でも扱うように扱われていたと思います。まあ、しゃあないかとも思いますが、思えば、患者には医学的知識がないからと言って、上から扱う医者のあり方も問題なわけで、こちらが獣医だとか、医者であるとか、看護婦であるとか、そう言った医学的知識を持ち合わせた人間が患者だと身構えるというような豹変ぶりを見てしまうと、その医者に対して軽蔑の思いを抱きます。
 と言うわけで、今度の医者とは向こうもポンポン言うし、こちらもポンポン言うしで、初対面の感じでは悪くないと思いました。
 一方、これまでのところは、まだ鉄欠乏性貧血改善のための注射剤だけ投与しに通っているのですが、「しら~。」っとした雰囲気があります。まあ、高飛車な口が災いしたと思ってちょうだい。

 患者には病院を選ぶ権利があります。人間の病院であっても、動物の病院であっても。初診料+紹介状なし料金がかかって、かなり痛かったですが…。子供生むって、つくづくお金がかかるのね。少子化対策という政を担う人にもその辺り、よろしく言いたいですわ。
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by fussyvet | 2005-12-17 13:23 | 徒然