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責任

「子供を育てるのは親の責任。」
「子供のしたことは親の責任。」
と、平気で言う者たちよ。
驕るな。
人は他の命に一人あるいは二人”だけ”で責任を持てるほど立派なものではない。
自分自身すら不完全で、生かされているものなのに。

子供はコミュニティで育てるべきだ。
そのコミュニティが「村社会」である封建的な日本は、その意味で致命的。
出生率の低下はこの国にとって自然現象だろう。
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by fussyvet | 2004-10-31 17:29 | 家族

生の根本

なんとかならないこともある。
頑張れないこともある。
それがわからないならば、自分がいかに恵まれていたかを忘れず、感謝して生きるがいい。
少なくともギリギリの場所に立っている人に躊躇なく「頑張れ。」というほど横柄であるな。
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by fussyvet | 2004-10-31 17:17 | 徒然

私が人間のお医者さんでなく動物のお医者さんになった訳

どうしてこの職業に?

 親からは「人を助ける仕事だから、やりがいがあるぞ。」と医者になることを勧められた。しかし、子供の頃の私は人間嫌い。イヌやネコを平気で捨てる人間、殺す人間、車で轢いても知らんぷりの人間が大嫌いだった。「人間なんか助けたくない。医療過誤訴訟もよくあるし、そんな息の詰まる仕事は嫌だ。それよりも私は動物を助けたいんだ。」若く純粋だった私は頑なに人間の医者になることを拒んだ。親への反発もある。それで私は人間のお医者さんでなく、動物のお医者さんになることを選んだ。
 しかし、私が予想した動物を助けるお医者さんは存在しなかった。人間のために動物を利用するために獣医師という職業があることを知った。医療過誤訴訟も最近では人間並みにある。覚える知識は人間の医者と半分以上は同じ。しかし、社会での活躍の仕方は大きく異なった。
 今、私は動物実験に携わる研究者および実験動物のためのお医者さんである。実験に使われる動物の苦痛を取り除いてやりたい。少しでも要らぬ動物実験は減らすシステム作りにも関わりたい。余計な実験を排除して、適切に動物実験を行うことは正確なデータを取り、ひいては医学のスムースな発展に貢献することにもつながる。そうすれば実験に使われる動物も削減できるのではないか?私の全ての関心は今そこにある。

 人間嫌いで医者にならなかった私。しかし、仕事は全て最終的には人間のためである。人間嫌いのままでは獣医師も務まらない。今、私はやっと「人間」らしくなってきた。人間とその他の生き物の橋渡し役、これからが腕の見せ所だと思う。生まれてきて無駄な命、不幸しか感じられない命があってはいけない。人も動物も…。

********【関連記事は こちらへ】*********
メディカルブログ(http://exhospital.exblog.jp/)
医療の世界に入ったきっかけ
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by fussyvet | 2004-10-29 17:47 | こうして社会は回ってる

本当の宗教の姿

民間人殺害についてのイスラムの見方

「宗教があらゆる紛争の原因になっている。だから、私は宗教など嫌いだし、そんなものに頼らない。」
 かっての私の意見だし、多くの人はそう思っているだろう。一部の新興宗教が起こす金銭トラブルや大量殺人、集団自殺などニュースで流れれば当然だろうし、歴史を見ても宗教戦争なるものがある。そして、今現在、アメリカがまるで全てのイスラム教徒を敵視しているようなやり方で、そんな風潮を生じている。とても残念だ。
 でも、本当の宗教はそんなものではない。だから、私は自分自身がクリスチャンであるけれども、仏教やイスラム教なども否定しない。最近、クリスチャンをターゲットにした、名前を持つ神様を神とする宗教者がアパートを訪れ、私を一所懸命引き込もうとしていたが、そんな他者を否定するような宗教はまがい物だ。本当の宗教はいずれも愛を唱えているはずで、他者を心身共に傷付けることは許していない。
 私はイスラム教の教えを余り知らないが、学生時代に敬虔なイスラム教徒の留学生がいた。その人はとても優しい人だった。私は彼の信じるものを否定したくない。

 争いを引き起こす宗教はまがい物だ。「宗教」というと変な目で見られる、そんな風潮が悲しい。そんな風潮を引き起こしている、宗教を利用した利己的な活動(戦争も含めて)が憎い。しかし、ここでも人が憎いのではない。そんな活動(罪)が憎いのだ。

 争いのない社会がいい。そのためには、お互いの価値観、存在を認め合わなくてはいけない。多くの人はそれが苦手なようだ。でも、そんなお互いの相違を受け止められる、多様性を受け入れられる社会になってくれることを願って止まない。
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by fussyvet | 2004-10-29 08:32 | 神様を愛してる

かたつむり

”いっぱいいっぱい”でも

今朝もアスファルトの上にかたつむりを見付けた。
拾い上げたが、近くに安全そうな葉っぱがない。
そのまま、20分間ほど手に持って歩いた。
今朝は寒くて、かたつむりをつまんでいる指の感覚がなくなるほどかじかんだ。
指の感覚がなくなれば、かたつむりを落とすところだった。

やっと手頃な葉っぱのある安全そうな野原があった。
そこにかたつむりを帰してやった。

一つの命を助けるのは簡単ではない。
その対象が人間であれ、動物であれ。
地震で崩れた土砂の中から2歳の子供が助かってよかった。
この時期にイラクへ入った若者は、ニュージーランドのワーキングホリデー感覚でイラクへ行ったのだろうか?
人間は無力である。
無謀はいけない。
でも、助かって欲しい。
私も無力。
祈るしかない。
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by fussyvet | 2004-10-28 08:17 | こうして社会は回ってる

会いたい人がいる

 今、ものすごく会いたい人がいる。今でも時々メールを交換する元彼でも、「今も世界のどこかで私を待っててくれる赤い糸で結ばれた人」なんて少女趣味の相手でもない。それはミッション・バラバの牧師さんたちだ。ミッション・バラバというのは、元ヤクザの牧師さんたちのグループである。「元ヤクザ」という類い希なる肩書きを持つ牧師だからという物珍しさからでもなんでもない。
 私が男で見た目、腕力ともにその素質があったなら、その道に入っていたかも知れないと思う。でも、幸か不幸か神様はそんな見た目も腕力も備えて下さらなかった。以前、「自分に腕力があったら、この世は本当に自分のものになるだろうに、悔しい。」と真剣に思っていたことがある。それほど、私は思い上がりが強くて、自己中心的な人間であった。キリスト教的に言えば、「罪が服を着て歩いていたような人間」である。誤解しないでいただきたいのだが、クリスチャンになった今でも罪人であることに変わりはない。以前と違うのはその罪に気付いたことと、神の前で悔い改めたことである。とにかく初めて教会に駆け込んだ日、私は礼拝の間中ただひたすら泣いていた。自己中心的で思い上がりの強かった罪人が自分の無力感から存在の否定までに至り、母を思い出すという唯一の歯止めにより死なずに神に導かれた最初の最初である。
 ミッション・バラバの牧師さんたちの中にも、絶望感から最初の教会でただひたすら泣くしかなかったとおっしゃっていた牧師さんがいらっしゃる。私はそれを聞いた時、自分と重ね合わせて、また泣いてしまった。私とその人に何の違いがあろうか?直にその牧師さんの説教を聞いてみたいと思った。
 罪を犯す人間と自分は違うと思っている人たちが大勢いる。しかし、その人たちが同じ状況に置かれ育ってきた時、果たして何人がそれでも自分は違うと言えるだろうか?「罪」とは簡単なことで生じる。例えば、目の前に歩道を横一列になってペチャクチャしゃべりながら話しているおばちゃんたちがいた時、私は心の中で「こらぁ、クソババアども。ちったあ周囲のことも気にせんかい!公道は己らのものちゃうんじゃ!」と心の中で思ったが、実際は「すいませ~ん。通して下さ~い。」と丁寧に言って通してもらった。しかし、心の中で思ったことは否定できない。もしも私がもう全てのことが嫌になってムシャクシャしていて自暴自棄になっていたら、そんなおばちゃんたちに向かって後ろから自転車で追突していたかも知れない。人間の心、「思ってしまう」ことは誰にも止められぬ。悪いことを「思う」ことがない人間はいない。そんなのは本当に神か仏だけだ。その意味で我々は皆罪人なのである。それから、一見善行を行っている人にも「独善」という罠がある。正義や真実は人によって違う。それを価値観が違う他人に押しつけた時、もはやそれは善ではなく独善なのだ。そんな一見善人が持っている罪は「自己中心」の罪である。

 どうしようもない「罪人」であったことを思い知らされた私。それでも神は愛して救って下さった。その同じ神の愛を経験した者としてミッション・バラバの牧師さんに会い、証詞を語り合いたい。
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by fussyvet | 2004-10-27 21:19 | 神様を愛してる

バッカでないの?

<肝試し>に原爆の写真を使った教師の話。しかも、授業として

 教員免許ってね、教育学科でなくても、簡単に取れてしまう。しかも、大学出てすぐ教師になる人ばかり。教師の世界も特殊だから、普通の社会人としての感覚を身に付けていない人が、何も知らない子供を教育しようってんだから、所詮制度的に無理がある。しかも、教育委員会は似非人権団体に牛耳られているし、ね。そんな教育でまともな人間が作られるわけがない。

 子供たちへ。学校で国語、算数、理科、社会等々の科目以外に先生から教えられる「道徳」みたいなものは半分ウソだからね。そんなものだけ素直に信用しちゃダメだよ。先生以外の他の大人とたくさん交流してね、そこから得られるものをきちんと取捨選択して大人になった方がいいよ。
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by fussyvet | 2004-10-26 14:41 | こうして社会は回ってる

動物に権利はあるか?

「動物に権利があるとしたら、肉を食べることはおろか、動物実験、ペットを飼うことまで全てやってはいけないことになる。だから、私は動物権利運動には反対だ。」
 これはある研究者でもある獣医師の意見である。

 「権利」とは何だろうか?そもそも動物が「権利」という概念を持っているとは考えにくい。彼らは自分たちが生きること、それだけ考えているはずであり、「権利」という概念は人間が作り出して持っているものである。では、それだから動物に「権利」はないのであろうか?
 人間社会、例えば我が国においては、「基本的人権」として憲法で認められている他、財産権、日照権など様々な権利が認められている。しかし、これらは「公共の福祉」によると制限される。例えば、ダムを造るとき、その造成地域の人たちの住居は「公共の福祉」の名の下で侵される。しかし、だからと言ってその人たちの権利は最初からなかったかと言うとそうではない。その人たちの権利は確かにあったのだ。しかし、「公共の福祉」の下に奪われただけなのだ。
 動物の権利についてはどうか?それは人間社会の法では定められていない。今現在、食肉、その他で動物を利用している現状からすれば当然のことかと思われる。「動物の権利」の全てを法律で認めてしまえば、現在の多くの人間の営みは失われる。ペットだってそうだ。もともと自然にいた動物を家畜化したものだからだ。だから、「動物の権利」を主張する愛護運動は発展しない。自分たちに自己矛盾があるからだ。犬も猫も家畜も守りたい。けれど、犬や猫、特に猫は肉食獣である。それを飼うなら、その餌になる別の動物が必要だ。「犬も猫も家畜も守りたい。」そのために、猫の餌までベジタリアン食にしようとする輩もいるが、それは己に辻褄を合わせるためのエゴに過ぎない。猫にとってはいい迷惑である。
 では、だからと言ってやはり「動物の権利」はないのだろうか?私はそうは思わない。ダム造成のため、あるいは道路拡張のため財産権を奪われて住み慣れた土地を追われる人がいる。その人たちは「公共の福祉」のために権利を奪われたのだが、元から権利がなかったわけではない。それと同じで、人間の概念ではあるが、一部で利用される動物がいるからと言って、動物に権利がなかったわけではないだろう。動物にも人間が言うところの権利はあった。しかし、それは人間の利益のために奪われたのである。
 さて、権利には義務が伴う。義務を全うもせず、自分自身の権利ばかり唱える人は得手勝手の「利権あさり」をするタヌキ親父である。そういうタヌキは自分の権利ばかり目に映って、人の権利を認めない。しかし、他人の権利を認めること、つまり譲歩や謙虚さを持つことも人間にしかできないことである。これは対象が動物であっても同じではないだろうか?
 「権利、権利」いう人間は胡散臭い。きな臭いにおいさえする。信用できない。全ての者・動物の権利を認めていれば、全て得手勝手でとんでもない世界になってしまう。そうではなく、人間が人間らしくできることは、相手の権利を認めることだろうと思う。その意味でも私は動物の権利はあると思う。問題は、どこまでそれを認め、線引きをどこでするかということだ。人間の権利で言うところの「公共の福祉」の範囲である。
 「動物の権利」だけを基盤に置く団体は自己矛盾を生じてその道理は破綻する。しかし、「動物の権利」だけを訴えるのではなく、自分たちが利用してしまう動物の「福祉」を訴えるのがいいだろう。それでも、人間社会ではコストを考えるので、肉食をする人間やペットがいる限り、「畜産動物の福祉」については難しいだろうとは思う。
 本当に「動物の権利」を認めたいなら、肉食を止めることはもちろん、ペットも飼うべきではなく、実験動物が使われる医療サービスを受けることもできなくなる。それをできずして、「動物の権利」ばかり訴えるのは胡散臭い。自分がまずできないことをどうして他人、社会に要求できるというのか?「声だけ届ければいい。」と言って平然と従来の生活を続ける者がいるが、それは「他人に厳しく自分に甘い」。
 「動物に権利」はあると思う。しかし、自己矛盾に気付いてそれを解消していかない限り、未来はない。「動物実験反対!」と言っている者のどれだけがそれを実行できるのか?私は期待を持って尋ねてみたい。
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by fussyvet | 2004-10-24 15:16 | 動物

朝から頭が痛くて一日休ませてもらった。
薬が切れていた。
月経困難症もある私に市販の鎮痛薬は欠かせない。そして、それにも動物実験は使われている。
動物実験なしで新規開発薬品の安全性を確認する方法をまだ人間は持っていない。
動物実験を今すぐ全て止めさせたいなら、全ての人が薬の開発をもうしなくてよいと思わなければならない。
私はそれでも構わないが、しかし…。
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by fussyvet | 2004-10-22 18:19 | 動物

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ&アメリカ 天地風雲

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ&アメリカ 天地風雲

 知らずに借りたのだけれど、シリーズ第6弾。昨日のが第2弾。李連杰が出ているのが1~3と6だから、あと1と3を観なければ…。ドニー・イェンとの死闘を見るのが目的で2から借りてしまったのだけれど、これからフツーに観ようかなと思っている人はやはり順番に1から観ていくのが王道でしょう。
 で、ストーリーですが、やはりストーリー自体は気にせず、純粋にアクションを楽しむのが良いかと…。だって、「なんでアメリカやねん!?なんでインディアンやねん!?」といきなり考え込んでしまうから、真面目に捉えていられません。
 でもね、一つ収穫がありました。今回、連杰の弟子役で熊欣欣(Xiong Xin Xin)という役者さんのアクションに目が釘付け。惚れてしまいました。どうも声に聞き覚えがあったので、昨日の映画をもう一度チェックしてみました。でも、顔では同一人物かどうかは分からない。で、ネットで調べたのですが、やっぱり私の勘は当たっていました。昨日の映画で白蓮教という新興宗教のボスを演じていたのがこの人でした。昨日の映画ではかなり滑稽だったけどアクションは本物だったってこと。とにかく速くてすごく強い。聞けば、このシリーズには連杰のスタントマンとして最初から出ていて、それで認められて第2弾の昨日の映画に俳優デビューを果たしたらしいです。
 私は脇役に惚れっぽいです。以前からカンフー映画では主演よりもものすごい悪役がいるとその人に惚れてしまって、その人が出演している映画を調べて観まくるというのが私の”おたく”パターンです。まあ、今はいい大人ですから、以前のようにははまらないと思いますが、でも応援を兼ねて脇役さんの宣伝。熊欣欣のアクションはすごい!連杰といい勝負!年も連傑と1つしか違わない(我ながら、短時間でここまで調べたのはすごいと思うけど…)!カンフー映画が好きな人はもうとっくに観ているでしょうが、でもまだの方がいらっしゃいましたら、是非意識して観てみて下さい。

 主役もすごいと思いますが、やはり脇役もすごいし、大切だし、私はやっぱりそんな人たちを応援していきたいなあと思いました。映画でも実生活でもね。
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by fussyvet | 2004-10-21 10:34 | 映画