感情的で過激な運動の否定が一切の感情の否定に結びつくのか?

 さまざまな社会運動の中で、私が最初に関心を持った動物愛護運動はしばしば「過激な」「感情的」「動物愛誤」と揶揄される。海外ではテロリストの如く、動物にとって“敵”とされたターゲット、更にはその家族を対象に爆破事件、脅迫など非合法的活動に傾倒するものも多いし、一部の活動家はその問題の基にある社会構造や他の社会問題に触れず、感情にだけ訴えようとするために活動に対する反活動が起こってしまう。個人的には水掛け論をしている間に救われない動物たちは今も増えているのだし、関わっている暇はないと思う。が、不本意にも行き当たってしまった議論の中で、感情的なだけの活動を否定するために、一切の感情を否定しようとする輩をしばしば見かけるが、この一切の感情の否定に意味はあるのだろうかと思う。
 人道上問題があるとしてこれまで廃止されてきたこと、例えば奴隷制なんかは、当時の奴隷商人からすれば、「生活のために仕方がないことだ。」と「感情」とやらを抜きにした理屈でもって行っていた商業活動だっただろう。が、それでも、そのために売買されてしまうアフリカ系の人たちのことに心を痛める人がいたから廃止された。「感情」を持つ人がいなかったのなら、廃止もされなかっただろう。今、世界中で起こっているいろいろな問題だってそうだ。「子供たちに自然を残してやりたい。」「飢えや戦争で苦しんでいる人たちを見ていられない。」「子供が強制労働させられているなんて。」皆、心を痛める人たちがいるからこそ問題が発覚し、その解決のための道が探られている。少しでも感情が混じれば、「感情論」と非難されるのであれば、いろいろな問題のための改善策は何のために考えられるのだろう?損得か、徳不徳か、国家間の関係だけか?
 生身の人間でいる限り、一切の感情を抜きに問題を考えようなどということはできないだろうと思う。もちろん、感情なんて、人によって異なる個人の持ち物でしかないから、それだけで解決しようなどということも無理だ。「感情的で過激な」活動を「感情を抜きにして考えよう」と持ち出す人は、「感情的で過激」なものの対極にある過激さではないかとしばしば思う今日この頃だ。
[PR]
by fussyvet | 2007-07-20 15:49 | こうして社会は回ってる
<< 人体実験 ダルフール募金 >>