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次から次へと

 ここだけの話だが、夫の母、つまり義母とはしっくり来ない。それを確信したのは結婚式辺りから。何かと干渉し過ぎるし、本人はアドバイスや励ましと思っている要らぬ世話が私の勘に障る。「放っておいて欲しい。」正直な気持ちだ。
 私は自分の母親には何でも言うし、母は心の奥では私のことを案じていても、信頼を示し、放っておいてくれる。比較することは良くないけれど、自分の母親が懐かしい。やはりいい母だったと思う。勿論、義母は夫にとっては”いい母”であり、愛すべき対象であり、恩義を感じる相手だろう。しかし、私にとってはやはり赤の他人でしかない。
 それを踏まえてうまくコミュニケーションを取っていかなければならないのだが、典型的な封建的田舎の主婦であった義母にとっては、今のところ事実婚の形をとっていても私は”嫁”であり、自分の影響下に置いて当然の存在であるかのようだ。とても窮屈で苦痛である。
 今の私は自分のことだけでいっぱいいっぱいである。パートタイムジョブをしながら、それ以外の時間はほとんど休む間もなく大学に通い、掃除洗濯もしている。結婚式が終わったら、落ち着き、精神的に楽になると思っていた。けれど、それは大きな誤算だったかも知れない。「いつ田舎の隣組に挨拶に来るのか。」「お盆は帰ってくるのか。」質問に姿を変えた要求をつきつけられて、私は死にそうである。「無理しないでね。」と曰うが自分の要求をのんで欲しいという思いは見え見えである。
 彼は私の前では自分の母親の悪口を言う。しかし、実際に電話で話をしている時は、その勢いはどこへやら、”いい子”ちゃんに成り下がる。結婚式以降、私の知らないところで田舎に帰る帰らないの話を母親とメールでやりとりしていたらしい。「私はいったい何なん?」田舎の母親と話すより、まず私と話をしてくれ。彼も自分の母親とのやりとりに疲れているらしいが、それなら直接話す時に良い子になるのを止めるべきだと思う。はっきり言わず、曖昧な期待を持たせてしまい、それが叶わなかった時、どうやら私も悪く思われているようだ。自分の知らないところで、いつの間にか悪者になってしまう辛さ。昨日、再び希死念慮が浮かび、今朝吐き気がした。

 いつも私は楽になりたいと思っているのに、心は休ませてもらえない。それどころか、次から次へと重荷が生じるように感じる。気のせいだろうか?ましなことは、以前の私なら現在の状態には耐えられなかっただろうが、それに耐えられるだけ強くなってきていると思えること。それにしても、どうしてこうも次から次に思い患いが増えるのだろう?神様、そこにいらっしゃるのでしょう?教えて下さい。
 はい、存じております。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ書41:10)」だから、恐れません。たじろぎません。ただ、時々、どうしようもなく疲れる時があるのです。
 義母はカソリックのクリスチャンだ。彼は子供の頃に日曜学校へ連れられていったらしいから本当だろうと思う。今は全く信仰とは縁がないらしい。が、クリスチャンだ。カソリックだから、プロテスタントの私とは違うって?そんな馬鹿な…。神様、疲れた…。
by fussyvet | 2005-04-21 19:21 | 神様を愛してる
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