生きるのが「辛い」と「面倒くさい」の違い

 私には希死念慮がある。今まで時々「早く死にたい病」と言っていたものである。ありがたいことに最近は顔を出さない。が、子供の時から家族内での喧嘩など、ものすごく辛いことがあると、「早く死にたいなあ。」と何となく思っていたから、これからも顔を出すだろう。多分、私だけでなく、それほど珍しい感情ではないのではないかと思う。
 しかし、1年ほど前、心底「生きているのが死ぬほど辛い。どうしてこうまでして生きなければならないのか?」と、しゃれではないが心が底まで落ちたことがある。あの時はまさに「生きるべきか、死ぬべきか」それだけが問題であった。「死にたい気持ち」の方はその方法ばかり考える。「生きたい気持ち」は家族のことを思い出させる。その葛藤が辛さを増した。とにかく生きていること自体が「辛い」のである。あの時、「死にたい気持ち」が圧倒したならば、最後は何も考えず、一人で実行したことだろう。しかし、それをしなかったのは、まだ「生きたい気持ち」があったからだ。
 そんなギリギリの葛藤の中で、もし「一緒に死なないか?」と誘われたとしても、私は「それは何か違うのではないか?」と違和感を持って、寧ろそう言われたことで「生きたい気持ち」が強くなっただろうと思う。私の「死にたい気持ち」は私一人の心の中で生まれた感情であって、それに他人が介入することを気持ちよく思わない。何となく、私がそう思うに至った過程が軽んじられ、「死にたい気持ち」が馬鹿にされたように思える。そう誘った相手に反発を感じて「死にたい気持ち」が萎えるのだ。そうして、「生きたい気持ち」があることに気付く。もし、「生きたい気持ち」が全く無くなってしまったとしても、他人と一緒に死ぬなどということは思わない。他人と一緒に死ぬためには、集合場所と時間を打ち合わせるなどという面倒くさいことをしなくてはいけない。生きるのが辛くて死のうと思った時は、わざわざそんな面倒くさいことをしなくても、自分一人で実行するだろう。だって、計画する気力さえなくなってしまった時だから。

 生きるのが「面倒くさい」人たちは人と集まることは面倒くさくないのだろうか?計画を立てて、集まること自体が面倒くさいことだと私は思うのだけれど。何かそこには生きるのが「辛い」人たちと比べてまだ余裕があるように感じる。計画を立てて実行するという達成感を得たいがための快楽犯的な要素があるようにも思う。生きるのが「面倒くさい」人たちは、「死にたい気持ち」と「生きたい気持ち」との葛藤があるのだろうか?仲間と計画して集団で死ぬという心理には、「何かを達成したい気持ち」があるのであって、生きるのに辛くて耐えられず人知れず死ぬというものとは異なるように思う。「何かを達成したい気持ち」があるのなら、それを日々の生活の中で小さな目標を持って実行することも可能であったし、その方が良かったのではないか?
 希死念慮にもいろいろあると思う。それを持つ者として、なんとなく十把一絡げにはして欲しくないと思った。私の希死念慮は、人生の避けられない「辛さ」から生じているものであり、人生の「面倒くささ」ではないのである。記事を読んでいくうちにますます違和感が強くなるので言葉を発してみた。
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by fussyvet | 2004-10-15 08:53 | こうして社会は回ってる
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